キミは日本語吹替の魅力を知っているか?実力派声優が魅せる【吹替】の真実を堪能せよ!

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INTERVIEW #59 ポセイドン・アドベンチャー レッド・バトンズ〈マーチン〉役 羽佐間 道夫インタビュー

1970年代のパニック映画ブームの先駆けとなり、今日に続くディザスター・ムービーの礎を作った傑作『ポセイドン・アドベンチャー』が、TBS「月曜ロードショー」版、日本テレビ「水曜ロードショー」版、テレビ朝日「日曜洋画劇場」+WOWOW「土曜吹替劇場」版、LD版、BS-TBS版の日本語吹替音声5種を収録した「<日本語吹替完全版>コレクターズ・ブルーレイBOX」としてリリースされる。今回のスペシャル・インタビューでは、TBS版でレッド・バトンズを担当した羽佐間道夫が登場。シルベスター・スタローンやディーン・マーティン、ピーター・セラーズのほか、数々の作品に参加してきた大ベテランが、吹替黎明期の思い出と『ポセイドン・アドベンチャー』を振り返る!

●芸事好きは父親の影響? でも家柄は祖父が検察官という“超おカタめ”


――まずは出生地からおうかがいします? お生まれは1933年ですね。
父が三井鉱山(現・日本コークス工業)に勤めていまして、九州へ赴任することになりました。別の話になりますが、その時に山下洋輔さんのお父さんと一緒だったんです。それで三池炭鉱の担当になりまして。当時は労働組合なんてものはなくて、ヤクザが鉱山を牛耳ってる時代。僕の父は人事担当でした。うろ覚えなんですが、僕はそこで生まれたんです。九州の熊本、大牟田のすぐそばで。幼稚園まではそこにいたんです。

 そして東京に出てきて、港区の白金小学校に入り、そこで初めて舞台で「かちかち山」の後日物語っていうのを、全校生徒の前で読んだんですよ。「かちかち山」は太宰治の『御伽草子』にもあるんだけど、それじゃなくてオリジナルの話でしたね。狸の子供たちが敵討ちをするという内容で、狸がものすごくたくさん生まれちゃうわけね。それでタヌ六、タヌ七、タヌ八なんてのが出てくるんだけど、僕はそれがすごく面白くて。3年生か4年生くらいの時に朗読したのが、もしかすると、芝居をやろうと思ったきっかけかもしれない。
――幼い頃から、芸事に興味はあったんでしょうか?
ものすごく堅い家だったんですよ。僕の祖父は検察官か何かで、法曹界の人だったんです。僕は会ったことはありませんでしたが、祖父の兄弟は北海道で美濃部達吉の「天皇機関説事件」を裁いたりした人です。僕みたいに、芸能に近い人間が出てくるなんてとんでもない、という家柄でしたね。ただ父は珍しく芸事が好きでした。三池炭鉱では電信柱の上にスピーカーが付いてるんですが、昼の12時になると父が鉱員のために朗読をしてたんですよね。

●中学時代は演劇に没頭、大学進学はあきらめて舞台芸術学院へ


――血は争えないですね。
それがすごく耳に残っていたんです。菊池寛とか、そういう本を読んでいたんですけど。親族にたった1人、叔母に三浦環という世界的なオペラ歌手がいました。だけど、それだけ。あとは「芸能界なんてゴミ」のような扱いをする人たちの中で育ったんです。東京の代々木八幡にある、東海大学の付属中学校に進学しましたが、先生が早稲田大学の方で児童演劇を教えていたんです。その先生が指導していた演劇部で叩き込まれました。
──ご自分から演劇部に入部されたんですか?
そうですねえ、不思議なことに勉強のできない生徒だけが入るんですよ(笑)。そこでいろんな芝居をやりました。でもそこで演劇コンクールまで行ったわけですから、だんだん演技をする環境が整っていったんですね。
──当時の中学生の演劇は、どんな演目をやっていたんですか?
これが不思議なことに、また狸の話なんだよね(笑)。僕は後に『5つの銅貨』(1959年のパラマウント作品。羽佐間は主演のレッド・ニコルズの吹替を担当)の吹替えをやるんだけど、その作品に“サッチモ”、ルイ・アームストロング(ジャズ・ミュージシャン。“サッチモ”は愛称)が出てくるんですよ。その声を演じていたのが相模太郎。彼は浪花節の初代・相模太郎の息子なんだけど、その狸の芝居では僕の兄貴の役を演じました。兄貴って言っても狸の兄貴なわけですけどね。内木文英さんという児童文学者が先生で、僕らをキャスティングしました。僕が中心の役をもらって、相模太郎と一緒に芝居をしたわけです。

 それで、中学生の演劇コンクールに出て渋谷区で準優勝をしたんですよ。それから「あれ? オレひょっとするとこの世界でやっていくのかも」なんて思い始めたわけです。相模太郎とはその後、『5つの銅貨』で再会してお互いにビックリしました。

 その後、すごく不安定な高校時代を過ごして、大学に行くのをやめようと思っちゃうんですね。だけど、なにか自分の技術を活かそうと思って、舞台芸術学院(1948年創立。俳優養成を目的とした、舞台芸術専門課程がある専門学校)に行くわけです。僕は5期生でした。1期生には前田武彦とか青島幸男がいて、僕のクラスには「事件記者」(1958年から1966年までNHKで放映)というドラマに出ていた山田吾一がいました。その後、渡辺えりとかいろんな俳優を輩出するわけですが、当時は秋田雨雀と土方与志という素晴らしい演出家がいたんです。いずみたくなんかも出身者ですよね。大学に行ってからそこに入学してもいいんですが、早く何事も終わらせたほうがいいなと思って行ったわけです。

●叔父が手掛ける寄席でアルバイト──チケットボックスでの出来事が“声優”の始まり


──当時、入学するのは難しかったのでしょうか?
応募した人を全部入れてたんじゃないかな(笑)。そもそも芝居をやろうなんて考える人が少なかった頃ですし。舞台芸術学院は池袋にあって、立教大学が近かったんです。親にはどこの学校だって訊かれると「池袋だ」って答えて、立教に通っていると思わせていました(笑)。そこで本格的に舞台をやり始める。あくまでも舞台俳優を目指していたわけです。でも、だんだん生活が苦しくなってゆく。当時、神田に立花亭という寄席小屋があったんです。その立花亭の席亭が、叔父だったんです。
──全然堅い家じゃないじゃないですか?(笑)
いや、その叔父は堅い父方の血縁ではなくて、母方の叔父なんです(笑)。その叔父が「なんかアルバイトするか? 学校行った後、夜は空いてるんだろう?」と言われて、切符売りをすることになった。そこで、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭圓生と接触するわけですよ。林家三平(初代)がまだ二つ目でね。そういう落語家の連中を見ていくわけです。「落語家になんなさい」と言われることもあったんですが、自分は向いてねえなと思いながら、落語家のお友達がいっぱいできたんです。

 寄席のチケット・ボックス(切符売り場)はわずかしか穴が開いてなくて、向こうからはこちらが見えないんだね。ちょうど競馬の馬券売り場に似てるんだけど、これを“テケツ”って言うんですよ。チケットの寄席語かなと思ったらそうじゃなくて「手の穴」と書く、つまり「手(て)穴(けつ)」なんですね。で、チケット・ボックスを“テケツ箱”って言うんです。その中には女の人が入ってると思って、酔っ払いが来るわけです。手しか見えないし、まだ少年の手だからね。僕が一番美しかった時代だから(笑)。それでやりとりしてると、時々スケベな親父に手をつかまれたりなんかして「あ、いやっ」なんて女性の声を出してみたりして、それが“声優”の始まりでしたね。

 来る人は、だいたい芸者を連れてくる人が多かったですね。でも酔っ払いとの会話は、僕にとってはすごく面白かった。三遊亭圓生さんの女がいてね、毎日そのテケツ箱の前に立ってるんです。圓生さんが必ずしも寄席に出ているとは限らないんだけど、メッセージを渡してもらいたいって言うんだよね。その穴からさ「今日もお願い」って手紙を入れてくる。その下にはいくらかお駄賃が入ってるわけです。あんまり姿は見てないんですが、料理屋の人か、芸者さんでしょうね。だからメッセンジャーボーイとして、圓生さんに「また来ました」「また来ちゃったのか、そこに置いといて、置いといて」って。そういう粋筋の人たちと触れてきました。僕は少年だったから、古今亭志ん生さんに可愛がられて「蕎麦食いに行こう」なんて誘われていました。今の「かんだやぶそば」に行ったりね。だから芸能界といえば、一番身近だったのは寄席かもしれません。

●1人でいろんな人物を表現する落語の楽しさが演劇と結ばれ、吹替につながる

――当時の経験が、その後の演技に影響を与えたりしているんでしょうか?
よく歌舞伎なんかでは「3歳からやらないとダメだ」って言われますよね。料理人に三國清三さんってシェフがいますが、その人も「3歳の時に美味しいものを食べさせないとダメ」って言うんです。口の中には「味蕾(みらい)」という味を感じる器官があって、それが一番発達するときに美味しいものを食べさせなさいと。そうすると後々いい料理人になると言うんです。歌舞伎もそうですね。これから僕、寺島しのぶの息子の眞秀(まほろ)ちゃんっていうのと番組をやるんだけど(2人を追ったドキュメンタリー番組でナレーションを担当)、もう早い頃から歌舞伎を植え付けていくわけです。本人は「やだよ歌舞伎は、サッカーやりたい」なんて言ってるけど(笑)。まあそういうやり方で馴染ませられて、芸能の世界を見て育っていく。

 僕は、落語家がいろんな人物に変化するのを見るのが、嬉しかったし楽しかったんですよ。1人でいろんな人物を表現できる。それが演劇と結ばれ、やっぱり一番合ってたのが、外国映画の吹替なんじゃないかなと思うわけです。

 父が途中で亡くなったこともあり、生活は豊かではありませんでした。中学から高校も苦労しましたよ。自分たちで働いて食わないといけないというのがあって、兄貴たちもおふくろもみんなが苦しかった時代だった。そこでいろんな知恵は授かりましたけどね。あんまり豊かなところ、豊かな心の中では、芸能は育たないんじゃないかな。あくまでも“芸能”はね。“芸術”ということではなく、芸能について僕が思うことですけどね。この前、三枝成彰の話を聞いたら、「歌舞伎とかそういうものは芸能であって、芸術じゃないんですよ」と言うんです。彼が言うのは、周りのものを壊して進むのが“芸術”だと。そのまま、模倣して、伝えて守っていくのは“芸能”ですと。そういうジャンル分けからいくと、僕らも芸能ですよね。何かを自分から生み出していくっていうよりも、すでにあるものに従って演じている。少なくとも芸術家ではないと思うんですよ。

●舞台俳優として地方を回る日々から、ラジオドラマ、吹替の世界へ

――ただ、洋画の吹替をゼロから新たに創り出していく時代に居合わせていらっしゃいますよね。
そうですね。当時はテレビのコンテンツがなくて、五社協定(松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社によって1953年に結ばれた、各社専属監督や俳優の引き抜き禁止の協定)を結んでいた映画会社から映画の提供を断られて、役者も貸さないと言われていました。困った放送局が、ハリウッドでフィルムを買い付けてきたんですね。その当時、太平洋テレビジョン(日本でテレビ放送がはじまった初期より、外国のテレビ映画・海外ドラマなどの日本語版を制作し、各放送局へ配給する事業等を行っていた会社)に清水昭さんという方がいらして、「外国映画のフィルムを買ってきたから日本語版にしよう」と言われて、アテレコの世界に入り込んでいったんです。もちろん、その前にテレビドラマの「事件記者」とかにも出ていたんですが、実写ドラマの撮影は何日も拘束されてしまう。でも声の仕事は1日で終わるしね(笑)。それで同じギャラだから、だったら声の仕事のほうにしようと、まあ簡単な経緯なんですよ。
――とはいえ当時は、舞台俳優としての仕事がメインだったわけですか?
そうですね。とにかく、毎日のように地方巡業でした。北海道に行ったり九州に行ったり、巡業ばっかりでしたね。舞台芸術学院を卒業してから、新協劇団が前身の、劇団中芸っていうところがあったんですが、山田吾一なんかと一緒にずっと旅回りをしてました。どういうわけか新劇のレパートリーはほとんど、鼻が高いだとか、目が青いだとか、毛が赤いとか、そういう芝居ばっかりでした。ゴーリキーの「どん底」とか、ゴーゴリーとか、ロシア文学ばっかりだったね。舞台演出の土方与志さんがロシアから帰ってきたもんだから、余計にそういう芝居が多かった。シェイクスピアか、ゴーゴリーかゴーリキーばかりなんだよね。日本のものはあまり取り上げなかったです。木下順二という優秀な劇作家が登場するまで、相当時間がかかったんじゃないかな。
――最初に声の仕事をされた時のことを覚えていらっしゃいますか?
また私の両親の話になりますが、後に吉永小百合さんと一緒になる方で、フジテレビのディレクターだった岡田太郎さんのお母さんとうちの母が、東京女学館で一緒だったんです。山下洋輔のお母さんもそうなんだけど、そういうグループがあって「太郎ちゃん、太郎ちゃん」って呼んで親しかったんですね。その太郎さんから「お前ラジオやってみない?」って言われて、文化放送でラジオを始めるんです。

 その当時は、周りは東野英治郎とか小沢栄太郎とか八千草薫とか、そうそうたるメンバーでした。由利徹がまだ「男A」とか端役をやってたんですよ。そういう人たちとラジオドラマをやってるうちにテレビが始まって、日本テレビが盛んに外国映画を放送するようになり、やがてテレビ朝日(当時はNETテレビ)も外国映画をやるっていうんで僕らが呼ばれるんです。考えたら、あんまり人がいなかったんだね。だからものすごく忙しくなっちゃって。コンテンツが足りないからどんどんアメリカから買ってきて、最初は字幕でやっていたんですが、当時のテレビ放送は画面が乱れたり、田舎の方だと字の読めないご老人がまだたくさんいたんです。それで吹替が始まって、ラジオや舞台に出てる連中がうわっと起用されるようになったんですね。

●ラジオドラマは“レッスン”だった──今のアテレコに対して申したいこと

――ラジオドラマで最初にやられた役を覚えていらっしゃいますか?
殺し屋でした。「午後8時13分」という、菊田一夫原作の作品。殺し屋の安田という役でした。八千草薫さんが主役でね。二枚目俳優の根上淳さんと一緒にやりました。ラジオも、生放送と同じようにやるんです。テープはそうそう切れないって言われました。ラジオといえど、当時は収録に3日かかりましたね。リハーサルをやるんです。尺は30分なんだけど、ちゃんと立ち稽古もやる。芸術祭なんかになると10日間くらい通うんですよ、ラジオなのに。「じゃあ入ってきて」っていうセリフが来ると、ちゃんとドアから入ってきて「おはようございます!」と応える。本当に舞台みたいにやってました。

 レッスンという意味で、あれは後々役に立つ環境だったと思うんです。今みたいに、スタジオに行って、1人でちょっと喋って、「ハイ抜きまーす」みたいな状況とは、ものを作り上げる環境が全然違う。そこに僕は今のアテレコの欠陥があると感じています。人気者はもう忙しいから、「15分空いてます」「じゃあ、ちょちょっとやりましょう」とセリフを抜き録りして使う。相手と一緒にやっていなくて、ベッドシーンだって自分1人で仕上げるんだよ(笑)。相手はまた違う日に来て、合成して作っていくんだから、これじゃあ良いものは生まれないよね。声優の技術はそんなに変わらないと思うんですよ。小原乃利子と僕は、ウディ・アレンの作品(『アニー・ホール』『スリーパー』などで共演)では、マイクじゃなくてお互いを見ながら演じていたんです。そういうことをやらないと本当の意味で人に伝わらないと思う。

 今の人たちの声を聴いていて「ヤダなあ」と思うことはあるんだけど、それは彼らのせいじゃなく、メカニズムのせいだよね。芝居をやってるんだから、相手がいて、お互いに芝居をしたい。『ポセイドン・アドベンチャー』のように、みんなで集まってアテレコっていうのはもうあんまりないですね。抜き録り、抜き録りで、そこまでして忙しい人気者を集めないと成り立たないのかと思いますよ。アイドル精神みたいなものが優先されている。いろんなことを言う人はいるけど、僕は、役者を育てようとか、お互いに噛み合って芝居してセリフを育てていこうという環境はまったくなくなったと思ってます。それで文化を述べてもダメだよ。これは僕の世代の想いですよ。

 若山弦蔵は「お前どう思う、今の若けえの」と僕に訊いてくる。「どう思うって、いいのいるじゃない」って答えると、「バカ野郎、いいわけねえじゃねえか!」って(笑)。でも彼らのせいじゃないと思う。そういうことに気づく人がいないと、アテレコ文化は昔には帰れないんじゃないかな。昔のものを見ると、いいものね、やっぱり。

●東野英治郎にダメ出しを食らった!? 初の外画レギュラーは「ホパロング・キャシディ」

――大ベテランの羽佐間さんですが、駆け出しの時は東野英治郎さんに怒られたりされたそうですね。
「オレこんなのとやるの? やだよ」って東野さんが帰ろうとしたんですよ(笑)。きついよ、ほんとに泣くよ(笑)。帰られちゃ困るから、まず僕を切るよね。でもそういう試練って、あるいは大切なのかもしれないね。
――それはラジオドラマの頃ですか?
そうです。当時の我々の世代というのは、現場の雰囲気も厳しかったんじゃないかな。今の、テレビの生番組と同じような環境の中で育っていったんだと思う。それに、いろんな人たちの演技が聴けるし、見られる。それが少しずつ蓄積されていく世界だったと思いますね。僕らの世代では、「自分が成功した」と思ってる人は、いまだに1人もいないと思う。中には自分に酔っちゃう人もいるかもしれないけど、僕は自分のやった作品を見るたびに「やだなあ」と思いますね。そう思っているうちは、前に進んでいけるのかなと。やっぱり、一朝一夕にはいきません。芸能といえど、志ん朝の「五人廻し」と圓生の「五人廻し」を比較してみると全然違う。圓生の「五人廻し」を聴いていると、本当に吉原に行ってきた人なんじゃないかと思いますよ。
――では外画で最初にお仕事された記憶はどの作品でしょうか?
正確な記憶ではないんですけど、レギュラーについたのは「ホパロング・キャシディ」(1904年に誕生したカウボーイのキャラクターが主人公の米ドラマ)っていう4チャンネル(日本テレビ)のドラマだったと思います。当時は五社協定でスターは貸せないっていうギクシャクはあったようだけど、映画スターの岡譲司さんがそのドラマに声の出演をしていました。それがたぶん初めてだったと思います。そのうちに日本テレビのプロデューサーが「今度『ヒッチコック劇場』やってみない?」って言ってくれて、クマちゃん(熊倉一雄)なんかと一緒にやったりね。クマちゃんが「くぉんばんわ」って言って出てくるやつ(笑)。

 逆に言えば、僕は恵まれていたのかなあ。今はもういないでしょ、最初期にスタートした人たちが。納谷悟朗とか、滝口順平とかさ。山田康雄なんかはちょっと後輩、野沢那智なんてのはもちろん後輩だったけど、ユニークな人がいっぱいいましたよ。
――当時は僕らにしたら伝説のような方々が、入れ替わり立ち代わり働いていた時代でした。
そうですね。僕は朝から晩まで、1日に2本は必ずやってましたね。シリーズ物っていうとほとんどアメリカ、ハリウッドから来たものでした。もちろんイギリスなんかもあったけれど。ものすごくいい作品に当たる時もあるけれど、なんだこれっていうのにも当たりますよね。抱き合わせで一緒に買ってくるからね。その中から珠玉のようなものとポッと出会ったりするんです。

●「ローハイド」「アンタッチャブル」「コンバット!」──転機になった作品群

――ご自身の中で、その頃に印象深い、転機になったような作品はどれでしょう?
たくさんあります。僕が最初にビックリしたのは「ローハイド」(1959年~65年の米CBSで放送されたドラマ。クリント・イーストウッドの出世作としても知られる)。当時はこんなちっちゃなブラウン管しかなかったんですよ。その中で「ローレンローレンローレン♪」って曲とともに、もう画面から牛が出てくるんじゃないか!っていうくらいの迫力でした。そんなスケールのものをそれまで観たことがなかった。主演の声を小林修がやって、山田康雄がイーストウッドの声でした。あとは「アンタッチャブル」(1959年~63年にABCテレビで放送)ですね。あんな作品がシリーズ物として日本に入ってきたのは驚きましたね。それから「コンバット!」(1962年~67年に米ABCで放送)が入ってくるんだけど、あの技術力。アメリカの作品は、最初の掴みがすごく上手いと思うんですよ。ドイツ人がいた小屋の中にアメリカ人が入ると、いきなり爆発してアメリカ人の体が飛んでいく。ビック・モローが来日した時に「あれ、どうやって撮ってるんですか? 1人1人殺してるわけじゃないでしょ?」って訊いて。向こうは「君、バカじゃないの?」って感じでしたけど(笑)。人間がここにいて、圧搾空気で飛ぶようになっていて、その向こうに煙があって、手前に火があって、縦に並べて撮ったら全部が重なって、爆風で飛んだように見えるんだって、丁寧に明かしてくれました。

●本来のセリフは覚えてない? 『ポセイドン・アドベンチャー』の聴きどころは“ガヤ”

――『ポセイドン・アドベンチャー』はアテレコが黎明期だった50年代から20年経った頃のお仕事ですが、印象的なことがありましたか?
一番苦労したのはなんと言っても“ガヤ”ですね。ME(音楽と効果音のみの音声テープ。吹替制作には今でも必須)の中にガヤは入ってるんだけど、英語でガヤを聞かせるわけにはいかない。「助けてくれえ!」とか「バカやろう!」なんていうのが英語で入ってくると困るから、それは捨てちゃうわけ。このガヤはすごいよ、ガヤばっかり覚えないといけなくて、本来のセリフを覚えてないんだもん(笑)。

 あの映画では船が逆さになって、広間に大勢いる場面で、船が揺れるたび、水が来るたびに「ワー、ギャー」ってやるわけですよ。朝から晩まで。ほとんどみんな声がガラガラになっちゃうよね。でもみんなと一緒にやることが楽しかったんです。この頃にアテレコをやっていた連中は、世代があんまり変わらないんですよ。ラジオの頃は、例えば東野英治郎と僕っていうのは30歳くらい離れていたけど、そういう人にアテレコ現場で巡り合うってことはあんまりなかったね。アテレコっていうのはスポーツだから。運動神経がないと、映像を追いながら、台本も見ながら、外国人のセリフに日本語を合わせるなんてできないですよ。運動神経が発達した奴じゃなくちゃできなかったんです。

※このインタビューの続きは、2018年11月3日発売の『『ポセイドン・アドベンチャー <日本語吹替完全版>コレクターズ・ブルーレイBOX』』商品内に封入されているインタビュー集でお楽しみください!
(2018年7月9日/於:東北新社/取材・文:村山 章/協力:東北新社、フィールドワークス)

羽佐間 道夫(はざま みちお)【プロフィール】

1933年生まれ。ムーブマン所属。吹替黎明期より海外ドラマ・洋画などに出演。洋画ではシルベスター・スタローン(『ロッキー』シリーズ)、アル・パチーノ(『シー・オブ・ラブ』)、ディーン・マーティン(『オーシャンと11人の仲間』テレビ朝日版)、ピーター・セラーズ(『ピンク・パンサー』2~4)、ポール・ニューマン(『ロイ・ビーン』)、ロバート・デ・ニーロ(『バック・ドラフト』フジテレビ版)、ロイ・シャイダー(『フレンチ・コネクション』)など、ハリウッド有名俳優を多々担当。アニメでは、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の月の帝、『スターウォーズ/クローンウォーズ』のドゥークー伯爵などを担当。報道番組やバラエティのナレーターとしても活躍している。

解説&ストーリー

アメリカン・ニューシネマが人気を博していた1972年に、ハリウッドらしいスペクタクル・エンターテインメントを描出して大ヒットを記録したパニック大作。海底地震によって発生した大津波によって転覆し、上下が逆さまになったアメリカの豪華客船ポセイドン号を舞台に、様々な人生を背負った人々が決死のサバイバルに挑む姿が描かれる。今回のブルーレイBOXは、日本語吹替音声5種(TBS版、日本テレビ版、テレビ朝日+WOWOW版、LD版、BS-TBS版)を収録した「日本語吹替完全版」。5種すべてがソフト初収録であることに加え、うち4種がノーカット版となっている。「吹替の帝王」シリーズ名物である吹替台本(復刻・縮刷)と、羽佐間道夫ロング・インタビューの封入も見逃せない。ジーン・ハックマン、アーネスト・ボーグナイン、レッド・バトンズ、ロディ・マクドウォールら実力派キャストが共演。アカデミー賞では、視覚効果賞、歌曲賞の2部門に輝いた。

吹替版のポイント

長らく、ハリソン・フォードの吹替でも知られる磯部勉がジーン・ハックマンを担当したテレビ朝日版(1991年放送)がソフト収録されてきた本作だが、本BOXではこのテレ朝版に追加録音が施されたWOWOW版を含む全5種の吹替音声を完全収録。70年代(TBS版)、80年代(日テレ版、LD版)、90年代(テレ朝+WOWOW版)、2010年代(BS-TBS版)それぞれの時代の風味をまとった吹替世界を聴き比べることができる。ジーン・ハックマンを担当したのは、上記の順で、小林昭二、小林勝彦、内海賢二、磯部勉の顔ぶれ。BS-TBS版では、去る2018年8月13日にこの世を去った石塚運昇が演じた。主要キャストのアーネスト・ボーグナイン、レッド・バトンズ、キャロル・リンレーの担当陣を見ても、その時々の旬の声優が配されたバランス感が伝わるはずだ。
【各バージョンの吹替キャスト TBS版/日テレ版/LD版/テレ朝+WOWOW版/BS-TBS版の順】
G・ハックマン:小林昭二/小林勝彦/内海賢二/磯部勉/石塚運昇
E・ボーグナイン:富田耕生/藤岡重慶/富田耕生/坂口芳貞/辻親八
R・バトンズ:羽佐間道夫/あずさ欣平/村越伊知郎/富山敬(追加部分は飛田展男)/多田野曜平
C・リンレイ:鈴木弘子/山本千鶴/山田栄子/佐々木優子/坂本真綾

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2018.9.7「ポセイドン・アドベンチャー」羽佐間道夫インタビューを追加しました。

2017.12.20「劇場版 SPACE ADVENTURE コブラ <4K ULTRA HD>」榊原良子インタビューを追加しました。

2017.11.22「L.A.コンフィデンシャル」江原正士&伊達康将インタビューを追加しました。

2017.10.06「エイリアン2」田中秀幸インタビューを追加しました。

2017.09.22傑作吹替視聴室Vol.26:『猿の惑星』を追加しました。

2017.09.01「エイリアン2」鈴木弘子インタビューを追加しました。

2017.08.25傑作吹替視聴室Vol.25:『エイリアン』を追加しました。

2017.08.04「インデペンデンス・デイ」古川登志夫インタビューを追加しました。

2017.07.28傑作吹替視聴室Vol.24:『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を追加しました。

2017.07.03『インデペンデンス・デイ』山寺宏一インタビューを追加しました。

2017.06.23傑作吹替視聴室Vol.23:『シザーハンズ』を追加しました。

2017.05.26傑作吹替視聴室Vol.22:『LOGAN/ローガン』公開記念!を追加しました。

2017.04.28『ヒート 製作20周年記念版<2枚組>』菅生隆之【後編】インタビューを追加しました。

2017.03.31『ヒート 製作20周年記念版<2枚組>』菅生隆之【前編】インタビューを追加しました。

2017.02.24『ダイ・ハード/ラスト・デイ』樋浦勉インタビューを追加しました。

2017.01.27『サンズ・オブ・アナーキー』森川智之&五十嵐麗インタビュー【後編】を追加しました。

2017.01.06『サンズ・オブ・アナーキー』森川智之&五十嵐麗インタビュー【前編】を追加しました。

2016.12.22『ホーム・アローン』矢島晶子インタビューを追加しました。

2016.12.09『ホーム・アローン』折笠愛インタビューを追加しました。

2016.10.21『王様と私』壌晴彦インタビュー【後編】を追加しました。

2016.10.07『王様と私』壌晴彦インタビュー【前編】を追加しました。

2016.09.09『X-ファイル』戸田恵子インタビューを追加しました。

2016.08.19『ターミネーター』小山力也インタビューを追加しました。

2016.08.12『ターミネーター』大友龍三郎インタビューを追加しました。

2016.07.22『マイノリティ・リポート』佐藤拓也【後編】インタビューを追加しました。

2016.07.08『マイノリティ・リポート』佐藤拓也インタビューを追加しました。

2016.06.24『コマンドー』若本規夫インタビューを追加しました。

2016.06.10傑作吹替視聴室Vol.21:吹替の名盤特集第四弾を追加しました。

2016.05.27『X-ファイル コレクターズブルーレイBOX』小杉十郎太&相沢恵子&春日一伸インタビューを追加しました。

2016.05.13『X-ファイル コレクターズブルーレイBOX』福永莞爾&平田勝茂インタビューを追加しました。

2016.04.15傑作吹替視聴室Vol.20:『X-ファイル コレクターズブルーレイBOX』特集第3弾を追加しました。

2016.04.01傑作吹替視聴室Vol.19:吹替の名盤特集第三弾を追加しました。

2016.03.18傑作吹替視聴室Vol.18:吹替の名盤特集第二弾を追加しました。

2016.02.29傑作吹替視聴室Vol.17:『X-ファイル コレクターズブルーレイBOX』特集第2弾を追加しました。

2016.01.29傑作吹替視聴室Vol.16:『X-ファイル コレクターズブルーレイBOX』特集を追加しました。

2015.12.04『ウェイワード・パインズ 出口のない街』津田健次郎インタビューを追加しました。

2015.11.13『glee/グリー』坂本真綾&早川陽一インタビューを追加しました。

2015.11.12傑作吹替視聴室Vol.15:吹替の名盤特集第1弾を追加しました。

2015.10.16『Fargo/ファーゴ』森川智之インタビューを追加しました。

2015.09.30『コマンドー』玄田哲章&土井美加インタビューを追加しました。

2015.08.14『エイリアン』大塚明夫インタビューを追加しました。

2015.08.14『24 -TWENTY FOUR- リブ・アナザー・デイ』田中敦子インタビュー第1弾を追加しました。

2015.07.14『24 -TWENTY FOUR- リブ・アナザー・デイ』小山力也インタビュー第3弾を追加しました。

2015.07.19『24 -TWENTY FOUR- リブ・アナザー・デイ』小山力也インタビュー第2弾を追加しました。

2015.06.30吹替の帝王『エイリアン』幸田直子インタビューを追加しました。

2015.06.30『24 -TWENTY FOUR- リブ・アナザー・デイ』小山力也インタビューを追加しました。

2015.06.30吹替の帝王 公式サイトをリニューアルオープンしました!

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